東西合わせておよそ八十人しかいない講談師。幕末から明治にかけては、東西だけでなく名古屋にも講談師は数知れずいました。落語に桂や笑福亭、三遊亭と言った亭号、屋号があるように、講談にもたくさんの一門の名前があります。
東京では代表的なのは一龍斎、宝井、田辺、小金井、神田、桃川と言ったところでしょうか。
一方大阪は、旭堂たった一つ。元はアサヒドウと読ませていたのですが、いつのまにやらキョクドウとなってしまいました。大阪にも、明治の半ばまでは多くの講談師がいて、神道講釈系の玉田派をはじめ、松月堂、三省社、太年社、山崎、玉龍亭とたくさんありましたが、全て途絶えてしまいました。大阪の旭堂も実は東京の一門でありましたが、明治の初期に大阪に居ついた初代旭堂南陵を、祖としています。だから純粋の上方講談は芸能史上存在しません。四代目南陵が速記本等から大阪での講談の復活に力を注いでいるので大阪講談という本来の言い方に戻しているのです。
東京でも松林、放牛舎、錦城斎等、途絶えている名前も多数あります。玉田玉秀斎、玉龍亭一山、松林伯圓、放牛舎桃湖、錦城斎貞玉なんて、ワクワクしてくる芸名です。中でも、松林伯圓は、三遊亭円朝と並んで、言文一致運動に大きな影響を与えた講談師です。
又、玉田玉秀斎は、立川文庫の創始者と言ってもよい人です。真田十勇士は、正にこの立川文庫の執筆陣によって、こしらえあげられたのです。