師匠、旭堂南陵が嵐のようにいかれました。

私の師匠は、1949年9月4日生まれ、丑年、私よりちょうど10歳年上です。私は2010年に51歳で入門し、今年入門10周年です。「お前は、10年を契機に松月堂を襲名しなさい」と言われ、「コロナが収まるまで待ってください」とお願いして、いろいろな寄席やイベントをコロナ渦でどうすべきかと向き合っている中、師匠の体調に変化があり、2020年7月30日に亡くなりました。嵐のような一月余りでした。

師匠は「講談塾」を何十年とされています。今は、谷町六丁目のちんどん通信「東西屋」さんの土間を借りて、毎週木曜日午後1時からと不定期の日曜日の11時からです。若手の弟子がサポート役に付いています。私はコロナ渦になってからは、家から歩いて行って、塾生さんの終わりにお稽古をしてもらって、お昼ごはんを一緒に食べたりしていました。師匠の独演会がコロナの為に5月27日から7月23日に延期になり、同日の午前から夕方までに塾生さんの発表会もしようと、師匠がお決めになってからは、自分も出演させていただくし、師匠に任せておいてはタイムスケジュールが心配だから、自分が仕切らねばと塾にはなるべく行くようにしました。

しかし、6月14日は行かなかったのです。すると南鈴から「姉さん、師匠が帰り道にしんどいと言われたんです。これは、姉さんに知らせねばと思いまして」とラインがきたんです。健康自慢で、毎月する血液検査の結果を見せては自慢されていましたが、ここ一年程は、軽い糖尿病やと、食事節制をして、毎日1万歩目標に歩いていました。あの師匠が「しんどい」と言ってる、尋常じゃないと南鈴は思ったんでしょう。

6月19日(金)、毎月第三金曜日に千鳥亭で一門会をしています。師匠は身体を二つ折にして、「南照、背中が痛いのは内臓か?」と聞かれました。私は自分の母の経験から「膵臓です」と言おうかと思いましたが、言う気にならず「師匠、背中や腰が痛いのは内臓です。調べてください」と。この日は、いつもながらのええ声で「男の花道」をされ、帰られました。6月22日は、FM千里の収録の日でした。「旭堂南陵のなにわ友あれパート2」私はアシスタントで、師匠の話に頷いている役です。帰りの電車の中で、私の秋の独演会の相談をしました。「10年だから姉さん兄さんにも出て頂いて、若手に立体講談をしてもらおうと思います」と私が言うと、「皆に気を遣うな。独演会は心静かにやるもんや。楽屋にぎょうさん人がいたら落ち着かんやろ」そして、師匠と私のトークコーナーをしようということで、決まりました。

6月25日の朝9時に師匠からラインが入りました。「だいぶ元に戻っていますが、明日胃カメラを飲んで精密検査をします。絶食だし、今日の講談塾は頼みます」初めて、師匠から講談塾を任されました。これ以降師匠は塾に来られることはありませんでした。心配してくださる塾生さん達に病名も言えず「師匠の口から独演会にお話されると思いますから」としか言えませんでした。

「師匠、胃カメラは食道と胃しかわかりません。精密検査できるところを紹介してもらってください」「心臓と肺のレントゲンと心電図には異常なしや。糖尿の薬が残っているかもという診断や」「その他も調べてください。医者は自分の専門にしか目をむけません」「ありがとう」これが、25日夜の私と師匠のラインのやり取りです。

6月28日(日)堺の「御旅寄席」、45年続いている寄席です。「男の花道」をされました。私は出番がありました。師匠と同じ舞台に立てた最後となりました。世話役さんに「南照さん、もう10年か、変われへんなあ」と言われ、「はい。でも師匠はずいぶん変わられました」と私は言ったんです。白髪にされたこともあるし、糖尿病対策でダイエットされていることもあるけど、これが最後の御旅寄席になるとも思わずに。

7月2日(日)の朝、「今日も塾に行ってくれ」と電話があり、「エコー検査の結果、肝臓がんの疑いありや」と電話があったのも、その日の夕方だったと思います。6日に精密検査をすると言われたので、結果を電話してくださいとお願いしました。6日の電話は「膵臓癌や、肝臓に転移あり、もう手術はできない。化学治療のみや」私は聞きなおしました。「治療計画を立てる医者が今日は休みやったから、9日に医者に行って相談する」私はその夜、師匠にセカンドオピニオンについてラインをしました。「もし、セカンドオピニオンを考えられる時がきたら、師匠もお顔が広いと思いますが、私にも医者の友達がいますので言ってください」「ありがとう」

7月9日は、朝に文楽劇場へ23日の「塾生発表会+師匠独演会」の打ち合わせの日でした。私は一人で劇場に行きました。打ち合わせが終わり、代表の方だけに「もしも当日師匠の体調が悪ければ、独演会は中止にするかもしれない」と伝えました。病名を言いませんでしたので、その方は「いやいや、待ちに待った独演会、ぜひやってください」と言われ、私はそれ以上言えなかったんです。その日は午後からが塾でしたが、師匠の治療計画が決まる日でもあり、私は「明日にでもお電話お願いします」とメールしました。夕方師匠から電話があり、「明日、電話はやめよう」と言われるのです。これは何も言いたくないということだと思い、「わかりました。11日に桃園寄席に伺います」「わかった」

7月11日、谷町六町目で年に3回行われている「桃園寄席」に来られた師匠は、二階の楽屋に上がる元気もなく、事務所に座って「膵臓癌でんねん」と世話役の人に話されました。私は師匠の横の椅子に座りました。「この桃園寄席はお前やれ」とメモ用紙にギャラの配分を書いて渡されました。その数字が最初なんのことかわからず、「なんですか?」って聞いたら、「なんでわからんのや」って久しぶりに怒った声を聞きました。私は今まで散々師匠に反論を言ってきましたが、怒られたことはありません。その後「塾もまかした。週に二回は場所代もかさむから、回数は減らしたらええ」「御旅寄席もお前がやれ。もうできるやろ」と。師匠とお会いしたのは、その日が最後です。師匠は、弟子であり息子の南也に付き添われて帰りました。その日の舞台も「男の花道」で、舞台上でお客様に「私はすい臓がんです。これが最後になるかもしれません。今日は皆さんから1万円づつ頂きたいくらいです」と笑わされました。楽屋では「仁勇はいつ死んだんやったかな」「吉朝の最後の舞台は、文楽やったかな」とご出演の落語家さんに聞かれてました。

翌週には、担当している二つの大学に行かれ、後任を推薦して来られたようです。16日の検査では相当悪化していたそうで、その日南也から一門の皆に「内臓機能的に抗ガン治療もできない状態です」と連絡が入りました。師匠の最後の電話は、7月20日、その日も少し怒り口調でした。「病院から出られへんのや。独演会は一門でやれ、俺はズームか電話で出る」すぐに、小南陵姉さんと南也に相談し、21日に劇場に行って相談し、師匠の意向をメールで確かめ、22日に全ての段取りをして、23日朝から、南也の電話と劇場の音響を繋ぎリハーサルをして、本番に臨みました。小南陵姉さんがズームで病室の師匠の様子を弟子が楽屋で見られるようにしてくださいました。「はてなの茶碗」と「太閤の風流」これが今生の別れになると思いますと、言われました。

私の気持ちは、この日で終わりました。死を覚悟する師匠に何も言えませんでした。ただこの23日を成功させるために、ひたすら業務連絡を続けただけです。一週間後の30日、私は南也と西宮の駅で10時に待ち合わせをしました。塾生さんからお見舞いやお手紙を預かっていたので、渡すためです。南也に自宅に帰られた師匠の様子を聞いたら、脱脂綿をぬらして唇から水分を入れてます。朝も訪問看護の方が来てくれました。ときどき「うっ」って言いますと。私は、帰りの電車の中で思いました。「講談のできなくなった師匠は師匠ではない」と。そのころだと思います。10時36分に師匠はなくなりました。

 私は、師匠からたくさん「ありがとう」を言ってもらった珍しい弟子でしたね。その代わり言いたいこともいっぱい言いました。「お前にみたいな煩い弟子は破門じゃ」と。「南照よく言ってくれた。」「姉さん、よく言ってくれました」と周りからはいつも感謝されてましたよ。師匠と言いあうこともできなくなって、今は師匠ならこんな時どうおっしゃるだろうと思う日々です。私は松月堂にはなりたくないです。ゆっくり考えさせてください。今は、師匠に頼まれた業務を推進させて、これまでのようにご報告したいと思っています。   2020年8月16日 南照

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